2018/06/09 17:59

今年も一番茶の新茶がひと段落しました。

いまもうすっかり二番茶がスタートしまいたが、産地別の新茶ももうしばらくするとリリースできます。

今年で戦後73年。
白玄堂の創業者である父は、戦中に生まれ兄弟が12人いました。
戦後の日本は誰もが大変で食べることができる。ただ、それだけで幸せだったとよく話を聞かされました。
父は、姉が嫁いだ家で育てられ、兄の勧めでお茶の研修所へ進学しました。
18歳で国の農林水産省の茶業試験場
19歳で県の農業試験場茶業過程
20歳で宮崎経済連へ入社
その頃、なかなか所得が増えない宮崎茶業に嫌気がさして、
29歳で後に結婚する母に迷惑をかけることになのるのですが、退職金を前借りして世界一周の旅へ
レート1ドル/¥360の時代
ヨーロッパを巡り、アフリカを巡り、、、
世界を見た父は自分の小ささを知り、世界の大きさを感じたって100回以上そんな話を聞かされました。

32歳で父は、お茶農家の長女であった母と結婚
前借り借金は何年払い続けたかは全く聞いてませんが、かなり大変な生活を送っていたそうです。
ただ、宮崎茶業に情熱を注いだ。

父は、まっすぐすぎて全然出世はしなかった。
真面目すぎたんでしょうね。
父からお前は真面目すぎるって言われましたが、やっぱり親子ですね笑

56歳で宮崎経済連を退社
58歳で白玄堂を創業(僕は20歳でした)
77歳で他界。ちょうど白玄堂が20周年を迎えようとしていた時。

なんで急にこんな話をするかっていうと
僕が大学4年生の時に手に職を持つってとても大切なんだ。って戦後の話をそこからよく聞かされて。
俺は、お茶を勉強して本当に良かったと思っている。
どんなことでも大変で苦労するけど、その分自分のものになる。
若い時に沢山勉強してほしいから静岡にいってもう少しだけお茶の勉強をしないかって20年前に僕に話してくれたことを6月になると思い出す。
それは、ちょうど教育実習が終わったくらいに父と初めて膝を付け合わせて将来の話をしたあの時。
静岡で生活をはじめてから、初めて父がやってきた仕事を知り、仕事の深さを知って路頭にくれる毎日でした。
夏休みに宮崎へ帰ると父と交わす会話の時間が増え、宮崎県内のお茶畑を父が大好きだったマニュアルのトラックを僕が運転し、お茶の話をひとしきりした後に横でぐっすり眠っていた。

どれくらいお茶に歴史があって。
どれくらいお茶が素晴らしくて。
尽きることのないお茶への愛情と情熱をトラックの中で聞かせてくれた。


僕は、すぐにお茶が好きになったがよくわからない部分も沢山あった。
10年が経ち、お茶が楽しくなってきた。
それは、ようやくお茶を理解できるようになってきた頃だったんでしょうね。
それから、10年が経ち、茶業会に入って20年。

父から子へと
時間を掛けて、お茶の楽しさを伝えてくれた。
その楽しさを僕は、日々伝えてる。
「お茶が楽しいよ」ってね。

その楽しさってね。
コアなことを知ったから楽しくなったんだと思う。
宮崎県内の個性。
世界ってとっても広いのにちっぽけな宮崎県内だけでも立地や作り手で味が違う。
それだけでもとっても楽しくないですか?
体調によっても感じる香りや味が変化する。
淹れ方だって味や香りが変化する。

そうなると日本国中や世界中のお茶が楽しいって決まってるじゃないですか!笑

白玄堂は、お茶を売るために伝えてるんじゃないんです。
お茶が楽しいことを伝えたいから、お茶を販売してるんです。
宮崎のお茶でも十分にお茶の楽しさが伝わるから。

宮崎県内の産地別のお茶は、まさにそれなんです。
伝えたいから単一品種で飲み比べして、お茶の楽しさを知っていただく。

今年の新茶もきっと個性を感じ地球の気候に触れていただけるんじゃないかと思います。